いぶし銀の城島瓦

城島瓦の歴史

 関ヶ原の戦い後、徳川家が天下を治めます。1621 年、久留米藩主として有馬豊氏が丹波より築城技能集団を伴い、国入りします。その中に 瓦工も伴ってきました。瓦工たちは良質な大量の粘土と、筑後川の水運 に目を付け、城島地方で製造を始めたのが起こりです。
 篠山城の瓦造りから始まった城島瓦。その特徴であるいぶし銀の優雅な品位が愛され、平戸城、島原城等有名神社仏閣にも使用されています。城島瓦の名声は四国、名古屋と共に日本三大産地の一つとして全国的に 知られ九州はもとより朝鮮等にも輸出されていました。
 廃藩以後、職業選択の自由により瓦製造に従事する者が著しく増加しました。大正時代には城島町内に140軒を超える瓦業者がいました。
 現在は数軒となってしまいましが、400年の伝統を絶やさないため、 いぶし銀の瓦材を壁面タイルや花器や灯籠等、形を変え新たな魅力を広 めています。

鬼はなくとも「鬼瓦」

ところで、鬼瓦って鬼の顔だけじゃないんです。鬼の顔の有無にかかわらず棟瓦の端部に付けられた役瓦を鬼瓦とよびます。家紋をあしらった鬼瓦やお金が貯まるようにという願いで巾着袋や打ち出の小槌など、多様なデザインがあります。

鬼に願いを

 鬼面鬼瓦にはあらゆる災いから建物を守ってほしいとする人々の願いとともに、その鬼瓦を用いた建物の権威の象徴でもありました。鬼瓦の顔は大陸文化の影響や仏教文化、庶民の信仰等によって時代とともにその表現が変わっています。日本で最も古い鬼瓦は、大宰府政庁跡の鬼瓦 ( 重要文化財 ) で角の無 い古代鬼面でした。14 世紀以降になると、鬼面に 2 本の角や 牙をつけるようになりました。

いぶし銀の光沢の秘密

 形成した粘土素地をガス窯(約1000℃)で焼きます。 ガスの火を止め、ガス窯の温度を約 900℃まで下げ、無酸素 状態の窯の中で煙をモクモク発生させ、燻します。  そのとき逃げ場のなくなった炭素は、粘土素地全体に浸透し 表面に薄膜をつくり結晶化します。この工程を “いぶし” と呼 びます。  いぶすことにより、丈夫で長持ち、味わい深い光沢のいぶし 銀『城島瓦』が出来上がります。

焼く前の瓦を乾燥中
プレス機で成形後、乾燥中。

塀瓦の上の猫瓦
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